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小谷周平 「出所後のオナニックな日々」

自分の人生を赤裸々に綴ります。

僕の失敗

春の木漏れ日の中で君の優しさに

埋もれていた僕は 弱虫だったんだよね

 

 

森田童子、暗いよ。

そして小谷周平は人間としてはかなり終わってる。

失敗作と言っても過言ではない。

19歳の誕生日の前日、過失による失火で家を全焼させる。おかんの保険でまったくの新築暮らしで生活を再開できたのはたまたま。ただのまぐれ。燃え上がる炎を見ながら泣いていたおかんの顔を思い出すけど、調布署の面会に来た時もやっぱり泣いていた。事件が報道された後にも面会に来たけどその時どんな顔をしていたかはもう覚えていない。迷惑をかけっぱなしだが、今僕は何も思わない。徳島に帰る場所がなくなった。それで十分でしょう。

 

ネットで事件のことを色々言っている奴らがいて、それが当然で、でも出所者もこれからの人生を生き抜かなきゃいけない。家族と縁が切れようと、多くの人に疎まれようとも、それでも明日はやってくる。

 

「同じ空は明日を始めてしまう

たとえあたしが息を止めても」

 

僕は「家族」ってあんまり信じていない。それこそロマンチックラヴイデオロギーと同じだ。家族という神話もまた解体されて久しい、らしい。確かに家族の中で起こる陰惨な事件の報道が目立つようになった。それは一体いつごろからだったか。「結婚て素敵なこと」「最後はやっぱり家族」……。

おいおい冗談はよしてくれ。アメリカでは配偶者はもっとも自分を殺す可能性が高い人物であるというデータがあるらしい。子供に親が殺される事件だって年に何件かは起こっているはずだ。農村共同体が衰退して核家族化が進み、アル中や鬱になる親に怯えたり引きこもりの我が子に戸惑ってみたり。家族さえも他人。

 

世間や周囲の人に迷惑をかけておいて偉そうなこと言える立場ではないが、人生において「大切なもの」って何だろう。それは誰だろう、って考える。それでも答えはやっぱりシンプルだ。どれだけ自分が落ちこぼれても、僕のことを心配しそばに寄り添っていてくれる人だ。それは僕の場合、家族ではなかった。彼らは世間体を気にし、僕が夢を諦めて田舎で就職をすることを望んでいたらしい。

出所時妹からのメールには

「まず、200万包んで実家に土下座しに行くんが筋じゃないの?」とあった。

僕は

「お前はぶち殺す」

と返事した。

電話がかかってきたようだったが無視をした。死ね、と思った。家族なんか最後はあてにできない。僕は誰かの期待になんか答えない。自分の生きたいように生きる。それで失敗したんじゃないかって?それでもいい。回り道しながら、失敗を繰り返しながら、それでも、僕みたいな人間が生きていていいんだって思えるような絶望的な世界を期待する。

 

僕の家族も、僕のことを心配しなかった訳ではない。それは分かる。けれど、結局は「あんたのせいでどれだけ迷惑したか。引越しに弁護料に、おまけに報道までされて」といった具合で、「とにかく無事でよかった」という火事の際にはあったあの感じは、さすがに今回はなかった。

 

それでいい。疎まれた方が気が楽だ。まだ許されない、それくらいがちょうどいい。憎まれっ子世にはばかるってね。僕は明日も明後日も来月も来年も自分の夢を追いかけている。なんど転んだって起き上がる。生きている限りは、嬉しいことだって悲しいことだってずっと続きはしない。だったら、とことん楽しめるように生きた方がいい。そんな当たり前のことを今日もしんみりと感じるのだ。