物語について

今、細田守の『バケモノの子』を観た。断然、『おおかみこどものあめとゆき』の方が好きでした。要約するのは評論としては邪道だが、敢えて物語構造を分析するのなら、おおかみ〜の良さは、おおかみの血が入った子供たちの成長とともに、母親である「はな」自身が成長して行く過程にある。ラストであめが去りゆく姿に胸が締め付けられるのは、はながまた大切な人、その分身を失うことが悲しいから。どうし二度も、と我々は思う。けれど、そんな辛さや悲しみを包み込むように「はな」は「元気で、しっかり生きて!」と笑顔で送り出す。この「優しさ」に小谷は劇場で涙が止まらず、もう一回劇場に足を運んでまた泣いた。この物語は、実ははな自身が彼という大切な存在を失った喪失体験を克服していく、彼女の成長の物語のなのだ。

 

物語(小説や映画、漫画などの)評論などについて、恩師の故・大里さんから、ロラン・バルトエクリチュールを提唱して、「テクスト論」が主流になって(あとがきとかで漱石の生い立ちについて語るような評論は古いとした上で、文章についてのみ言及、分析する考え方)うんぬんかんぬん習いました。蓮實重彦が小説で賞を取ってましたが、映画評論にもこの手法は適用できる。登場人物の感情などにではなく、あくまでもスクリーンに映ったもの、のみについて語る。マンガ評論も然り。

 

ちょっと細かいですが、そして確証はないのですが、おおかみ〜の物語の途中からはなちゃんは髪が短くなって、「くりっ」とした感じになる。これは、亡き旦那やあめの髪型を彷彿とさせなくもない感じではある。細田監督がそこまで狙ったとはとても思えないが、『バケモノの子』を観賞し終えて少し確信しました。「はな」の心の中で「彼」は生き続けている。そして、このテーマはそのまま『バケモノの子』に引き継がれている。しかし、それでもおおかみ〜の方が好きなのは、僕が男の子でこの物語の主人公が「母性」そのものだからなんでしょう。ほんとうに、素敵なアニメ映画です。

 

喪男の哲学史』や『喪男文学史』で論壇を沸かせた?本田透は著書において「物語」の「機能」の一つを

「願望充足の予感」

としていた。

 

これは小谷も納得できる。つまり「いじめっ子が最終的には成敗されてスカっとする」「片思いの好きな相手と結ばれてハッピーになる」など、例をあげれば枚挙にいとまがない。では悲劇はどうか。『この世界の片隅に』を二回劇場で見た小谷に友人は「あんな重い映画よく二回も観たね」と言っていた。けれども、願望充足だけが物語の機能だとすれば、僕らが求めるのは「救い」ではあっても「絶望」などでは決してないだろう。ただし、その「予感」こそが本質なのだとすれば、「救われない」物語の方でこそ「(現実ではともかく少なくとも物語の中でくらいは)救われたい」という想いは強くなるのではないだろうか。その意味で、本田透の分析は的確だ。心温まる物語以上に、悲劇は胸に刻み込まれる。安っぽいハッピーエンドなんかより、「救われたい」という願いこそは万人が共感しやすい感情だ。

 

まあ、そんな物語が自分にも書けたらなあという思いから執筆始めた訳ですが、ギターも引かなきゃいけないし、今年もマイペースな自分に追い込みをかけて生きたいと思います。僕自身の物語はまだまだ始まったばかり。

それでは今夜はこの辺で。おやすみなさい。