人のこころとは

 テューリングテストは、アラン・テューリングによって考案された最初のAIを使用したテストだったと記憶している。その実験内容はいたってシンプルで、被験者が画面越しにチャットしている相手が、「人間か、AIのプログラムなのか」を判定するというものだ。実験は、被験者がチャットの相手を「人間(実際はAI)」と判定した場合に、成功したとみなされた。たしかそんな話だった。

 デトロイトビカムヒューマンをプレイしながら「こころ」について考える。愛、憎悪、嫉妬、恐怖、愉悦、尊厳、悲哀、怒りなど人の抱く感情はけっこうある。プログラミングで、siriさんでも何でもいいが、およそ全ての感情を再現できるAIが誕生したとして、「どうしてそのAIは心を持っていない、と言えるのか?」という風に大学で習っていた教授が問いかけていたのを思い出す。

 僕は自分を客観的に分析したとき、とても自尊心の強い性格だと診断する。要するに、プライドが非常に高いのだ。加えて、人や相手の心の機微に非常に敏感だ。そして、自分の中に強い信念を抱えていて、曲がった事が嫌い。つまり、非常に厄介な性格な訳です。アンドロイドやAIを開発するのに、こういった人間の心の移ろひや論理的矛盾を含めた感情をコンピューターに理解させ、データとして入力するのはさぞ困難だろう。

 普段介助をしていても、ただただこだわりの強い利用者さんとかいる。そんなのには慣れているいる、大体みんな何かしらこだわりを持って生きている。「体は必ず◯◯から洗う」などもそうだろう。それらを含め、習慣やこだわり、あるいは趣味や芸術表現への理解、思想や政治的心条などは、どこかで自分の「大切にしているもの」を「守る」役割をしているのではないかと、ふと思った。それが自分自身という「自我」も含めて。

 

 ちょっと深呼吸して考えた。自分が守ろうとしている「大切なもの」とは何か。それはやっぱり、愛と平和だと思った。そして友人や仲間だ。僕は映画好きだし、評するのも好むが、まだちゃんと語れていてない映画『万引き家族』でも、「大切にしているもの」が大きなテーマになっていたように思う。法的には登場人物たちが盗みをはたらいているのだとしても、彼らはあくまでも「捨てられたものを拾ってあげた」あるいは「奪われたものを取り返した」という解釈。これらを通して、是枝監督が考える「自分だけは犯罪(をする)とは無縁」を無条件に信じる社会の危険性を、彼のその示唆を評価せずにはいられない。

 「大切なもののためなら犯罪は許される」という方向に結論づけはしないが、人生において岐路なんてのは突然現れる。それは後から岐路として認識されるのであって、その時の当人にとっては「運命のいたずら」でしかない。デトロイトビカムヒューマンは、ゲームだし、操作しているキャラクターの選択次第で結末が変わる仕様になっているが、これは人間の人生そのものだ。自分がその時「最良の選択だ」と思って行動した事が最悪の事態を生む。まあ、それが人生と言ってしまえばそれまでだが、やっぱり過去の失敗からは学びたい。

 これから会社も始めるわけだし、僕には守るべきものがさらに増えてくる。自分のこゝろが成長しているかどうかは分からないし、むしろ精神年齢はめでたい中学生くらいなもんだという気がしないでもない。でも、自分の人生を存分に楽しみながら、自分のこころをこれからもしっかりと育てて行きたい所存です。