哲学と歴史

 大学時代に出会った書物、執筆家の中に本田透の『喪男の哲学史』がある。偉い哲学者はみんな童貞だという論調も面白いのだが、印象に残った彼の主張の1つが「筆者は歴史と哲学は小学校から教えたらいいと思う」だった。

 さて、話は少し変わり大学時代に学んだ、興味深い事実の1つに不可能性がある。僕たちは自分たちが思っている以上に、周りの人たちと世界を共有できていないという事実。例えば色。赤という色が他の人にも自分が見ているのと同じように見えているか、というのは実は確認できない。音も然り。元々人間固有の可聴領域がある上に、細かく見ていくとジェンダー差(女性の方が聞こえる周波数が広いそうで、故に男の嘘を見抜くとか)、や個体差があって、音もやはり厳密にはみんなに同じようには聞かれていない。

 いや、しかし言葉があるじゃないか、と思うだろう。でも言葉ほど、曖昧で解釈が多様なものもない。人文系の哲学書思想書が難解で量が膨らむのも、限りなく丁寧に1つを結論を導こうと努めるがためである。しかし、だからこそまた解釈も別れ、派閥が生まれるという事実もある訳だが。

 

 だけれどもだ。デカルトの、我思う故に我あり、じゃないが真実というのはシンプルな形をしてるんじゃないか、と個人的には思っている。最近時間こそないものの散歩しながら1人哲学するのが好きな小谷なのである。

 さて、先の可聴領域だけれど、大里氏の授業でそういうチェックCDでトライしたんだが、ぼくは16000ヘルツあたりで脱落。つまり、高周波などはほとんど音として認識できていないのです。音楽やってるくせに笑

 古代哲学者は「無知の知」を発見した訳だけれど、自分が正しいと信じていることも、実はたかがここ数百、数十年くらいの常識でしかなかったりする。まあ、そういう視座を哲学や歴史は与えてくれますね。