自己のジェンダー論を再考する
私が学生だった頃には分かり易い保守派との対立みたいな分脈からのジェン
私自身は学生時代に上野千鶴子がフェミニストの草分けと評していた金井淑子氏の講義、「ジェンダー論入門」に感化されたこともあり、ジェンダー論者だ。個人のアイデンティティの最も原始的な部分に女性、
現在のSNS上で見かける議論、政治的なものを含めても様々なものがある。そして、フェミニズムに関して言えば「フェミニズム内部での捻じれ」のような構造をもった議論とも呼べないような、しかし当事者の思いが直接ぶつかり合うような決して無視できないような対立を見かける。例えばセックスワーカー論などもそうだろう。「性産業」をマクロの視点から男性による女性の身体の搾取と批判することは一見非常にフェミニズム的な思考だと思う。しかし現在ではセックスワーカー当事者の方から「自分たちは主体的にこの仕事を選択している。そしてこれは自己決定の実践である。だからこそセックスワーカーに対する差別に断固反対する」という声が上がる。この批判は当然ながらフェミニストに直撃する。上野千鶴子の性産業に従事することを「精神と肉体をドブに捨てる行為」と表現したことでSNS上で炎上したことは記憶に新しい。
「トランス」を巡る議論にもフェミニズム内部の捻じれが見られると感じる。あるいはフェミニズムとジェンダー論の性質がそのまま対立に繋がっているといってもいい。フェミニズムでは、女性が男性と対等の権利を得るためにどうしても主張をする「女性」という立場が非常に重要になるし、それは不可決だ。しかし一方でジェンダー論は「多様な性」の在り方を希求する研究の性質上、「女性らしさ」などの呪縛からの解放などがベクトルとして存在する。つまり女性という枠組みを境界から取り壊すようなイメージで捉えている人がいても不思議ではない。小倉千加子なども「ジェンダー論とは違い、フェミニズムについて講義する時は「~べき」という論調で話してしまう」というようなことを書かれていた。ちなみに、もともとジェンダースタディもフェミニズムの潮流から生まれたそうだ。
<参考リンク>
議員発言からみる激化するトランス差別と持続するバックラッシュ - by 近藤銀河 - 近藤銀河のネット
この手の構造の問題は厄介だ。SNS上では他にもフラワーデモと対立するように「ファイヤーデモ」が起こったことなども思い出される。フラワーデモは「被害の大小」を問わないし、「被害者のジェンダー」も問わない。しかし、デモに参加する女性が抱える男性参加者への不安からこのファイヤーデモは「女性のみの連帯」を訴えて発足した。私はフラワーデモの活動を応援するし、その方針にも賛同する。しかし一方で、ファイヤーデモを訴えた人たちの気持ちも分かるつもりだ。ただ私が危惧するのは、そういったフェミニズム内部で対立が起きるときに、果たして議論すべき焦点がきちんと定まっているのだろうかということだ。
私は男性であるが、「フェミニズムの戦う相手は家父長制であり、男性そのものだ」と考えている。だから、私は男もフェミニストであるべきという考え方には部分的に賛同しない(自身をフェミニストとは名乗らない)。だからこそ、女性や性的マイノリティの当事者同士が言い争いをしているような状況を見ると非常に心苦しくなる。そしてそこには常に「自分は当事者ではないから所詮、議論対象でしかない」という壁があることも感じていて、だからこそ声を上げることを躊躇ってしまう。少しでも、言い争いから生産性のある議論に発展したらいいなという思いから、個人の視点ではあるが問題を整理する論考を記しておきたかった。捻じれた議論というのは、当然最初から議論がかみ合っていないことを指す。
ジェンダーバックラッシュが連綿と続いていると結論付けるには、議論に参加する層が多様であり、問題を一元的に見ることができない状況だ。それはしかし、これまでのフェミニズムがそうであったように、こういった議論も含めて前に進んでいくしかないのだろう。女性ではない自分に何ができるのか分からないが、それでも当事者の意見に耳を傾け、これからはどういった議論をすべきなのかについて考えていけたらと思う。